語り部と歩く! 世界遺産・熊野古道ウォーク (中辺路)

紀伊山地の霊場と参詣道  神々の大地熊野を歩く
 神々の住む聖地であり、再生の地とされてきた、熊野への巡礼路「熊野古道」。古くから九十九王子のある熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社。那智代謝)への信仰の道として、かっては「蟻の熊野詣」と言われる程、多くの参拝者が往来しました。

今回、「中辺路」を、地元の語り部ガイドと一緒に歩き、熊野に息づく歴史や文化・自然を肌で感じながら、癒しの旅に出かけました。
 2012年4月18日(水)
集合:近鉄奈良駅噴水前 AM7:30
出発
:奈良観光バスにてAM7:35===国道169号===天理IC===西名阪道路===松原JC経由===阪和自動車道===紀ノ川SA(WC休憩 AM9:00)===阪和自動車道(田辺IC終点)===一般道===第1回スタート地点闘鶏神社到着(AM10:25
第1回 熊野古道ウォーク闘鶏神社スタート(
AM11:05)・・・高山寺(昼食・WC AM11:30到着 出発PM12:15)・・・秋津王子(PM12:40)・・・須佐神社(PM13:00)…万呂王子(PM13:25)・・・三栖原寺塔跡(PM13:40)・・・三栖王子(PM14:00)…八上神社(PM15:00)・・・田中神社(PM15:15)・・・稲葉根王子(PM16:00)ゴール到着

帰路稲葉根神社前駐車場(PM16:10)出発===白浜とれとれ市場(PM17:10)===阪和自動車道===紀ノ川SA(PM18:40)===松原JC===近畿自動車道===第二阪奈自動車道===阪奈道===近鉄奈良駅前(PM20:00)到着
 
 
  第1回  闘鶏神社〜稲葉根王子                                  歩行距離12km
 中辺路の玄関口・田辺より冨田川沿いに鎮座する稲葉根王子までの約12km。田辺市の闘鶏神社では道中の安全をご祈祷いただきスタート。途中、秋津・万呂・三栖の各王子社を巡り、西行法師ゆかりの八上王子、南方熊楠ゆかりの田中神社に立ち寄りゴールの稲葉根王子に向かう。稲葉根王子社は古道中、数ある王子社でも特に格式の高い五躰往王子の一つに数えられている。
 
闘鶏神社
闘鶏神社は、允恭天皇8年(419年)の創建で、古くは新熊野鶏合大権現(いまくまのとりあわせだいごんげん)と呼ばれていたものが、明治維新の折、今の闘鶏神社に改称したという。
何となく前の呼称のほうが、重々しくていい感じである。
壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社で、名の由来は、平家物語壇ノ浦合戦の際、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された、武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによるものである
拝殿 本殿前で道中安全祈願の参拝
拝殿 本殿前で道中安全祈願の参拝
西殿 左から上御殿・中御殿・下御殿・八百萬殿
西御殿 左から上御殿・中御殿・下御殿・八百萬殿
社殿は6棟。向かって左から西御殿、本殿、上御殿、中御殿、下御殿、八百萬殿。拝殿は本殿の前に
 あります。祭神は以下のとおり。
祭神名
西御殿 速玉之男命・事解之男神
本殿 伊邪那美命
上御殿 伊邪那岐命・天照皇大神・宇賀御魂命
中御殿 瓊々杵尊命・鵜草葺不合命・火々出見尊・天之忍穂耳命
下御殿 火産霊命・弥都波能売命・稚産霊命・埴山比売命
八百萬殿 手力男命八百万神
弁慶社 御神木 大楠 市指定大樹天然記念物
弁慶社 御際神 武蔵坊弁慶
紀州田辺は弁慶生誕の地と伝わり奥州平泉で弁慶が亡くなった事を悼み植えられた弁慶松に祀られていた御霊。
御霊は智仁勇を体現する忠孝の鑑で街の繁栄を祈り、家内安全・社運隆昌・立身出生・衆災消除の信仰がある。
御神木 大楠 市指定大樹天然記念物
樹齢約1200年 にどの落雷により中央部以上焼失欠損
樹高14m、根本周囲11m、胸高周囲8m。
 
各班に分かれスタート前のオリエンテーションとストレッチ 第1回 熊野古道ウォーク(中辺路) AM11:05スタート
各班に分かれスタート前のオリエンテーションとストレッチ 第1回 熊野古道ウォーク(中辺路) AM11:05スタート
昔は大辺路、今は飲食街通り  蟻通神社
昔は大辺路、今は飲食街通り  蟻通神社 
道分け石 右 きみい寺 左 くまのじ 道分け石 右 きみい寺 左 くまのじ
道分け石    右 きみい寺 左 くまのじ 大師通り
   
正南面山 高山寺 真言宗 御本尊 大日如来
真言宗 正南面山 高山寺 山門
 田辺の市街地を一望できる高台にあり、弘法大師が開創したとされているお寺で、『弘法さん』の名で親しまれています。江戸時代建立の美しい多宝塔はじめ、広い境内には諸堂宇が立ち並んでいます。
 長沢芦雪の「寒山捨得」や「木造聖徳太子考養之像」等の県指定の文化財が保管されており、海の見える墓地には、南方熊楠や植芝盛平の墓があります。熊楠の菩提寺ですが、生前にもよく訪れ、とくにこの寺苑の一角にあった日吉神社(糸田の申神さん)境内から数多くの隠花植物を採集しました。この申神社の合祀と神木の伐採が、熊楠の神社合祀反対運動のきっかけとなりました。
また、弘法大師が近くの淵(御影淵)に姿を写して彫ったといわれる弘法大師像にまつわる伝説も伝えています。
真言宗 正南面山 高山寺 山門
境内に立ち並ぶ本堂及び諸堂宇 境内に立ち並ぶ本堂及び諸堂宇
境内に立ち並ぶ本堂及び諸堂宇 方丈
多宝塔
多宝塔 六角堂
   
本日のお弁当(味三昧謹製)
 今回は各地元のお弁当がいただけるので楽しみです。献立は、紀州名産のめはり寿司に素朴な味わいの五目炊き込みご飯。地元でとれた鯖の味噌漬けを朝焼き仕上げ。太地港から取り寄せたクジラのしぐれ煮。ほか。
本日のお弁当(味三昧謹製)本日のお弁当(味三昧謹製)
 
昼食後高山寺をスタート(PM12:15) 以前、会津川に架かる大師橋の手前にあった常夜燈
昼食後高山寺をスタート(PM12:15 以前、会津川に架かる大師橋の手前にあった常夜燈
秋津王子安井宮跡  秋津王子安井宮跡
秋津王子の創祀時期は不明であるが、藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(1202)10月13日条に、「前夜田辺に宿泊、早朝出立してまず、秋津王子に参る」とある。しかし、藤原宗忠の「中右記」天人年(1109)10月の熊野詣での記事には見えないので、この間に祀られたものと考えられる。
この付近一帯は、左右会津川(三栖川・秋津川)に挟まれた氾濫原の低地で、長い歳月の間の水没や水害などにより、現在では秋津王子の旧地や古道をたどることは困難。
 秋津王子は、江戸時代になってからも、柳原から落合、さらに安井という地へ移されたと考えられている。この碑には、秋津王子が祀られていたといわれる安井宮が明治3年に雲の森神社(現在の豊秋津神社)に合祀されたことが記されている。
碑文 「秋津王子安井宮跡
  往昔是より南七町旧柳原村よりこの地に奉還明治三年雲の森に合祀
   昭和二五年一二月      下秋津村
 
須佐神社が祀られている万呂山 川沿いに沿って須佐神社に向かう
須佐神社が祀られている万呂山 川沿いに沿って須佐神社に向かう
道標 須佐神社
道標 須佐神社  PM13:00
   
万呂王子跡
 万呂王子は、藤原宗忠の「中右記」天仁二年(1109)の条にはその名が見えず、藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(1202)一〇月一三日の条には「秋津王子を過ぎて、次の山を越え丸王子に参る」とあり、この間に祀られたと考えられているが、秋津王子からの古道は定かではない。 万呂王子の旧地については、寛政四年(1792)の「田辺領神社書上帳」に「御神体石」、「往古より熊野九十九王子之内と申伝御座候」、「社僧社人無御座、無宮之神主一人御座候」などの記述がある。
 明治十年(千八百七十七)八月に、下万呂の須佐神社(旧名牛頭天王社)に合祀される前は、この付近に小さな森があり、往時の面影が残っていたといわれている。
万呂王子跡案内板 現在、万呂王子跡は私有地になっているので近くまで寄ってみることが出来ない
万呂王子跡案内板  PM13:25 万呂王子跡は私有地になっているので近くまで寄ってみることが出来ない
国指定史跡  三栖廃寺塔跡
 三栖廃寺は奈良時代前期の創建で、同時代に建てられた寺院跡としては紀伊半島で最も南に所在しているが、双肩に関する文献はありません。
 三重塔と推定されている塔の土台(基壇)上に心礎が残っています。心礎は一辺約190cmの三角形の砂岩系の石で、直径65cm、深さ7cmの円形の柱座が彫られており、その中央に直径約14cm、深さ9cmの舎利孔が穿たれています。発掘調査により基壇南辺で東西約6.2m、高さ0.3〜0.6mの基壇縁化粧と中央に幅約1.8m、奥行き約0.9mの三段の石積階段が崩れた状態で確認された。
 復元に当たり、基壇一辺を9.4mとし、埋め戻されている石積階段を一段のみ復元表示するとともに、党創建期の基礎瓦積を見られる様になった。
 発掘調査では心礎以外の礎石の痕跡は確認されていませんが、四天柱の礎石4と側柱の礎石12を復元設置してある。
御堂 三栖廃寺塔跡で小休止
御堂 三栖廃寺塔跡で小休止 PM13:40
心礎と四天柱礎石
塔跡の礎石 心礎と四天柱礎石
三栖王子に向かって 樒の花が咲いていた
三栖王子に向かって 樒の花が咲いていた
 
三栖王子跡
三栖王子跡  県指定文化財史跡
 

 三栖の地名は藤原為房の日記、「大御記」ン見えます。為房は水保元年(1082)10月に熊野に参拝した際、三栖荘で宿泊している。王子の名は藤原定家の日記、「熊野道之間寓記」に「ミス山王子」と書かれているのが初見です。承元4年(1210)4月の「修名門院熊野御幸記」でも三栖王子に参拝したことが記されており、承久二年(1220)十一月に熊野参詣をした藤原頼資の日記にもこの王子の名がみられる。室町時代頃には、すでに、三栖から塩見峠(潮見峠)越えの道が開かれていたが、応永三十四年(1427)九月に熊野参詣をした足利義満の側室・北野殿は、旧来の参詣路を経由していた。その後、退転し、江戸時代に再興されて「影見王子」と呼ばれるようです。明治初年に八坂神社の摂社となり、同四一年に一倉神社(現、珠簾神社)境内に移転した。
三栖王子跡標石   PM14:00     
南方熊楠山中裸像撮影場所
 明治三四年一月二八日 朝八時頃起き。辻氏感冒平治の由ゆえ、午下家を出、同氏を訪い共に横手八幡(写真とる)より三栖千法寺、それより岡に出、途中松グミ生たる松の下に予裸にて立ち喫煙するまま写真。岡の八上おうじ及中宮写真、それより岩田大坊、松本神社写真、黄昏なり、朝来入口にて丸で淡昏くなる。それより新庄を経帰る。予脚絆はくを忘れ脚はなはだ痛む。
南方熊楠山中裸像撮影場所の現在の眺望 南方熊楠山中裸像撮影場所案内板
南方熊楠山中裸像撮影場所の現在の眺望 南方熊楠山中裸像撮影場所案内板  PM14:30
八上王子参詣道 八上王子   県指定文化財史跡

 八上王子は熊野九十九王子の一つで、今の八上神社であり、建仁元年(1201)の「熊野御幸記」に「ヤカミ王子」とあり、古くから崇敬されていました。西行法師の「山家集」に

  「待ち来つる 八上の桜
          咲きにけり 荒くおろすな
              三栖の山風」        西行

とあり、、八上王子の名が広く知られています。王子は住民の信仰があつく、産土神社となり社叢も保護され、最もよく神社の体系が保たれています。


(上富田町 HPより)
八上王子参詣道  PM15:00  
八上王子(八上神社) 西行法師歌碑
八上王子(八上神社)   西行法師歌碑
 
田中神社(岡藤)の森
和歌山県指定文化財

 
天然記念物  田中神社の森(岡藤)
 
 この森の岡藤は、南方熊楠先生によって初めて認められ、変種として「オカフジ」と命名された。全体として総状花序が短く、また一つの花についてみると、花弁がやや大きく、花は淡くて白色に近い、翼弁はこれに反して色が濃い。神社入り口と祠背後の二株が特に見事である。
田中神社(岡藤)の森  PM15:15  
田中神社入口に垂れ下がる岡藤の幹 境内にある楠の御神木
田中神社入口に垂れ下がる岡藤の幹 境内にある楠の御神木
 
最後の坂道を登り終え小休止 昨年9月の台風被害で流された岩田川に架かる潜水橋(畑山橋)
最後の坂道を登り終え小休止 昨年9月の台風被害で流された岩田川に架かる潜水橋(畑山橋)
岩田川一ノ瀬水垢離場跡
水垢離場(みずごりば)

 ここ岩田川(富田川)沿いに熊野参詣道が通り、中世には熊野詣での水垢離場として重要な地であった。
 この川で禊をすれば今までの罪がことごとく消え去ると信じられ、上皇や女院達も徒歩で渡った。
 「平家物語」や「源平盛衰記」などにも登場し、また
「いわた河 渡る心のふかければ 神もあはれとおもはざらめや」 花山法皇など多くの古歌が残されている。
 岩田川を最初に渡るこの付近の瀬を一ノ瀬といい、滝尻王子まで何回も渡りを繰り返したという。
岩田川一ノ瀬水垢離場跡  
 
伊奈芭根王子跡標石 稲葉根王子跡  県指定文化財史跡

 藤原宗忠の日記「中右記」の天仁二年(1109)十月二十二日条に、「伊奈波祢王子社に参り奉幣」とあるのが、この王子の初見です。建仁元年(1202)、後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家は、十月十三日に稲葉根王子に参拝していますが、この王子では、五躰王子に準じて、儀式が諸事華やかであったと日記に書いています。承元四年(1210)四月二十八日、修明門院が参詣した際には、この王子を五躰王子としています。室町時代にも、五躰王子として存続し、足利義満の側室・北野殿が参拝した折には、神楽が奉納されています。近世には「岩田王子」ともいわれ、村の産土神として祀られていました。拝殿が設けられ、末社に稲荷社を付帯していましたが、大正四年(1915)に岩田神社に合祀されました。現在の社は、昭和三十一年(1956)に複社したものです。
伊奈芭根王子跡標石  
岩田神社入口 岩田神社
岩田神社入口 岩田神社
 
第1回 熊野古道ウォーク PM16:00 稲葉根王子跡にゴール