語り部と歩く! 世界遺産・熊野古道ウォーク (中辺路) |
紀伊山地の霊場と参詣道 神々の大地熊野を歩く 神々の住む聖地であり、再生の地とされてきた、熊野への巡礼路「熊野古道」。古くから九十九王子のある熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社。那智代謝)への信仰の道として、かっては「蟻の熊野詣」と言われる程、多くの参拝者が往来しました。 今回、「中辺路」を、地元の語り部ガイドと一緒に歩き、熊野に息づく歴史や文化・自然を肌で感じながら、癒しの旅に出かけました。 |
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2012年9月15日(土) | |
集合:近鉄奈良駅噴水前 AM7:30 出発:奈良観光バスにてAM7:25===阪奈道===宝来IC===第2阪奈道路===近畿自動車道松原JC経由===阪和自動車道===紀ノ川SA(WC休憩 AM8:40〜9:00)===阪和自動車道(南紀田辺IC終点)===国道(42号線==311号線)===第5回スタート地点牛馬童子ふれあいパーキング地到着(AM10:35) 第5回 熊野古道ウォーク 牛馬童子ふれあいパーキングスタート(PM12:15)・・・牛馬童子(AM11:40)・・・近露王子跡(PM12:10)昼食・・・長野瀬一族の墓(PM12:50)・・・比曽原王子跡(PM13:50)…野中の清水(PM14:05)・・・継桜王子跡(PM14:15)・・・秀衡桜(PM14:30)・・・中川王子跡(PM14:50)・・・小広王子(PM15:20)ゴール到着 帰路:小広王子(PM15:30)出発===国道311号線(古道歩きの里「ちかつゆ」(WC/買物休憩PM15:40〜16:10)==国道42号線===阪和自動車道(南紀田辺IC PM17:10)===紀ノ川SA(WC休憩PM18:15〜18:30)===美原JC(PM19:15)南阪和===橿原IC===京奈和道===国道24号・169号線===近鉄奈良駅前(PM20:20)到着 |
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第5回 牛馬童子ふれあいパーキング〜小広王子 歩行距離 11km | |
今回参加者35名、1班は番留さん、2班は加藤さん両名の語り部さんに17名、18名の2班に分かれてガイドをしていただく。スタート間もなく旧国道上でストレッチを行い、最初の近露王子(昼食場所)を目指し境内で地元のグループの手作りお弁当を食べる。また、このコースは最初のころは山道ですが途中から大半,舗装道路になってしまいました。 | |
第5回 スタート地点牛馬童子ふれあいパーキング | 第5回 熊野古道ウォークスタート |
スタート間も無く旧国道上でストレッチを行う。 | 古道には入りウォーク再開 |
古道表示案内標 | 熊野古道をウォーク |
旧、旧国道(右上からの道)と熊野古道との出会い | 古道から旧、旧国道をウォーク |
旧、旧国道をウォーク | 中辺路道標24 |
旧、旧国道の面影を残す石垣脇ををウォーク | 一里塚跡(26里) |
箸折峠茶屋跡 | 牛馬童子への登り口 |
牛馬童子 牛と馬にまたがる僧服の石像は花山法皇の熊野詣の旅姿であるとも言われ、田辺市指定史跡となっています。 |
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牛馬童子像と不動明像 AM11:40 | |
宝篋(ほうきょう)印塔(県指定文化財「近露の宝塔」) | 押印帳にスタンプを押して |
中辺路道標25 | 急な石畳の道を下り近露に向かう |
展望台から眺めた近露の集落 | |
天皇や上皇などの宿所跡 | 近露王子跡がある森 |
近露王子跡の碑 PM12:10 | 近露王子押印所 |
近露王子 王子の中でも最も早く現れた王子のひとつで、後鳥羽上皇が和歌会を催したと記録されています。 王子跡の周辺には、かつて熊野詣をする天皇や上皇などの宿所があります。 近露王子碑の文字 「近露王子之跡」と書かれた碑の文字は、記名はないですが、大本教主出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の筆跡です。昭和8年(1933年)3月21日、王仁三郎がこの地に来た時、当時の近野村長横矢球男の依頼で筆をふるったのです。翌年1月それを彫りつけた王子碑が建立されました。その2年後の昭和10年12月大本教は、2回目のはげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならないことになりました。その時横矢は、「この文字は筆跡を自分が模写したものである」と主張し、保存していた王仁三郎の書を警察に提出しました。そして、碑面に彫られていた「王仁」の署名を削り、そこに「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去をまぬがれたといいます。出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多く建てられていましたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはこの碑文だけとされています。 |
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今日の昼弁当 | 近露王子跡の入り口にある歌碑 |
近露王子へPM12:10に到着、境内で地元の「グループはてなし」の謹製の手作りお弁当を食べる。 お弁当のメニュー:煮物(筍、切り干し大根、インゲン)(しめじ、ちくわ、人参、辛子こんにゃく)・アマゴの素揚げ・イタドリの油いため・具入り卵焼き・ご飯(地元産米)きゅり、人参の酢の物・果物(リンゴ) 昼食後PM12:40出発。 |
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近露伝馬所跡 | 近露の宿場であった民家 |
野長瀬一族の墓 野長瀬氏は、大和十津川郷野長瀬組の出身で、13世紀初頭近露荘下司職となりました。元弘の変以後、楠木正成を助け、一方で南都から吉野に向かった護長親皇の危急を救ったと太平記にも記されています。その功績で「横矢氏」を賜りました。以後一族は、野長瀬或いは横矢と称し、南朝・後南朝を助けましたが、時に利あらず近露に帰荘し、勢力を張ったと言われています。 豊臣秀吉の紀州征討にも抵抗したため、一族は離散してしまいました。数十年後に再び近露に戻り家を再興し現在に至っています。 写真の墓碑は後南朝以後紀州征討の頃までの一族のものと思われます。付近の山中に長い間埋もれていたのを1960年初めに発掘して、ここに祀ったものです。五輪塔54基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)6基に及び、まさに強者たちの夢の跡です |
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野長瀬一族の墓 PM12:50 | |
乙女の寝顔と名付けられている山の姿 | 中辺路道標28 |
楠山坂の登り口 | 庚申さん |
庚申さん | 道端で咲き始めていた彼岸花 |
PM13:30ごろから雲行きが怪しくなりポツリポツリと降り始めていた雨が一時急に降りあわてて雨具の用意をした。 | |
比曽原王子 「紀南郷導紀では王子社ありとされていますが、「熊野道中記」では「社なし。同村の内、道の左の方」とされていて既に社は無かったものと思われます。(一七二三)紀州藩は青石をもって石碑を建てようとしましたが、誰も社が建っていた、ところを知らなかったようです。 |
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比曽原王子跡 PM13:40 | 雨の中語り部番留さんの比曽原王子跡の説明を聞く。 |
一里塚跡(27里) | 野中の清水へ急な下り坂を降りてゆく |
野中の清水 野中の清水(のなかのしみず)は、継桜(つぎざくら)王子の真下、旧国道沿いに涌き出ている清水で、日本名水百選のひとつにも選ばれています。古来より涸れることなく水が湧出し、旅人がのどを潤した絶好の休憩所でもありました。 PM14:05 |
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野中の一方杉 野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)は、国史跡、県指定天然記念物の名木で、継桜王子の境内を覆うかのようにそびえる樹齢800年の杉の巨木群です。すべての枝が南の方角、すなわち那智山の方角を指しているといわれるご神木です。 |
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野中の一方杉 | 幹回りが7人手をつなぎやっと届いた大杉 |
継桜王子 野中地区の氏神でもある王子社。境内の斜面に一方杉の巨木が10本ほど現存している。県指定の天然記念物。 王子社の名前の元となった継桜とは、12世紀初めには語られていたようだ。藤原宗忠の日記に「道の左辺に続桜樹あり。桧に接ぎ木したとある。 ただし、桜は接ぎ木は殆ど出来ないそうだ。 奥州の藤原秀衡の熊野詣では金の産地の大豪族でもあることで、大いに評判になったようだ。継桜を秀衡桜と呼ぶようだ。滝尻王子に伽藍を建立し、維持費として黄金を壺に入れて近くに埋めたと云うロマンが語られている。 |
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継桜王子社の鳥居と石段 | |
継桜王子跡 PM14:15 | 継桜王子社澱 |
とがの木茶屋 | 中辺路道標34 |
秀衡桜 継桜王子社から約100メ−トル東の道端にある大きな桜が「秀衡桜」です。昔は継桜王子の社前にあったのですが、前の桜も明治の水害で倒れてから現在の場所に植えられました。 秀衡桜は、奥州の藤原秀衡が、生まれたばかりの子を滝尻の岩屋に残して熊野へ参る途中、ここで杖にしていた桜を地に突き刺し、それが成長したものだという伝説があります。 植えつがれていまの桜は三代目かになります。 平成23年9月 台風にて倒木。 |
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三代目の秀衡桜(23年9月の台風で倒木) PM14;30 | |
奥州秀衡三大桜を示す石碑 | 秀衡桜押印所 |
安倍晴明の腰掛石 | 道端で咲いていた女郎花(おみなえし) |
中川王子跡の説明板 PM14:50 | 古道中で一番小さな庚申さん |
道端で出会ったキイジョロホトトギス | 中辺路道標38 |
小広王子 天仁二年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、十月二十五日に「仲野川王子」に奉幣した後、「小平緒(こびらお)」「大平緒(おおびらお)」を経て、岩神峠にむかっています。また、建保五年(1217)に後鳥羽院と修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には、「大平尾(おおびらお)」「小平尾(こびらお)」と書かれています。この王子社は、「小平緒」「小平尾」に由来すると考えられますが、江戸時代以前の記録に、王子としては登場しません。土地の人々が小広峠の上に祀った小祠が、いつの頃か小広王子といわれるようになったと推測されます。その跡地に紀州藩が享保八年(1723)に緑泥片岩の碑を建て、明治末期には、この碑だけの小広王子神社として、金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。もとの小広峠が道路建設で崩されたため、王子碑はここに移されていますが、石碑の上部が欠けて、「王子」の文字のみとなっています。(案内板より) |
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上部が欠けた緑泥片岩の小広王子跡の石碑。 | 小広王子跡案内板 |
第5回 熊野古道ゴール地点 小広王子跡に到着(PM15:20) | |