語り部と歩く! 世界遺産・熊野古道ウォーク (中辺路)

紀伊山地の霊場と参詣道  神々の大地熊野を歩く
 神々の住む聖地であり、再生の地とされてきた、熊野への巡礼路「熊野古道」。古くから九十九王子のある熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社。那智代謝)への信仰の道として、かっては「蟻の熊野詣」と言われる程、多くの参拝者が往来しました。
今回、「中辺路」を、地元の語り部ガイドと一緒に歩き、熊野に息づく歴史や文化・自然を肌で感じながら、癒しの旅に出かけました。
 2012年10月20日(土)
 
集合:近鉄奈良駅噴水前 AM7:15

出発
:奈良観光バスにてAM7:15===阪奈道===宝来IC===第2阪奈道路===近畿自動車道松原JC経由===阪和自動車道===紀ノ川SA(WC・休憩 AM8:20〜8:45)===阪和自動車道(南紀田辺IC終点)===国道(42号線==311号線)===(古道あるきの里ちかつゆ WC・休憩AM10:30〜10:40)===第6回スタート地点小広王子跡前到着(AM10:50
第6回 熊野古道ウォーク小広王子跡スタート(
AM11:00)・・・熊瀬川王子跡(AM11:20)・・・草鞋峠(AM11:40)・・・古道迂回路入口(PM12:05)・・・蛇形地蔵(PM13:55)…湯川王子跡(PM14:25)・・・三越峠(PM14:55)・・・赤木越え分岐点(PM16:25)・・・船玉神社(PM16:30)・・・猪鼻王子跡(PM16:40)・・・発心門王子第6回ゴール到着(PM17:05

帰路発心門王子駐車場(PM17:20)出発===国道168号===国道311号線(古道歩きの里「ちかつゆ」(WC/買物休憩PM18:00〜18:20)==国道42号線===阪和自動車道(南紀田辺IC PM19:10)===紀ノ川SA(WC・休憩PM20:00〜20:20)===近畿自動車道松原IC経由===第二阪奈道===近鉄奈良駅前(PM21:30)到着
 
 
  第6回  小広王子〜発心門王子                         歩行距離 12km
 今回参加者29名、1班は大竹さん、2班は関さん両名の語り部さんに15名、14名の2班に分かれてガイドをしていただく、スタート前に小広王子跡前でストレッチを行い第6回熊野古道ウォークをスタートしました。、昨年の台風12号の被害により岩神王子前後約4kmが迂回路となって岩神王子は通れませんでした。又、今回は歩行時間が長くかかるので到着時が遅くなる恐れがあるのでスタート時間を早めるためと昼食時間の無駄を省くためバス走行中に車中にて早め(AM10:00)の昼食をとる。
 
毎回、出発地へ向かう時に休憩する紀ノ川SA 本日車中にて食べたお弁当(はないちばん謹製)
毎回、出発地へ向かう時に休憩する紀ノ川SA 本日車中にて食べたお弁当(はないちばん謹製)
第6回スタート地点小広王子跡 小広王子跡前でスタート前にストレッチをする。
第6回スタート地点小広王子跡 小広王子跡前でスタート前にストレッチをする。
←熊瀬川王子・中川王子→を示す道標 県道から別れ熊野古道に入る
←熊瀬川王子・中川王子→を示す道標  県道から別れ熊野古道に入る       AM11:00
休憩所手前付近の下り坂 スタート間も無く上り坂に向かう
休憩所手前付近の下り坂 スタート間も無く上り坂(熊瀬坂)に向かう
地蔵像 熊瀬川集落で暮らしていたたちのお墓
地蔵像 熊瀬川集落で暮らしていた人達のお墓
熊瀬川王子跡 熊瀬川王子跡案内板
   AM11:20
熊瀬川王子
案内板より
 熊瀬川の地名は、承元四年(1210)、修明門院の熊野参詣に随行した藤原頼資の日記の五月一日条が初見のようです。この日一行は、近露王子を出発し、熊瀬川で昼食をとり、本宮まで行っています。寛喜元年(1229)の頼資自身の参詣では、十一月五日、同じく近露を出発して、熊瀬川で昼食をし、湯川で宿泊しています。「熊瀬川」王子の名は、鎌倉時代末期の「熊野縁起」(仁和寺蔵)にのみみえます。熊瀬川の地名は、草鞋峠の登り口付近一帯をさしますので、王子跡はこことするのが一応妥当でしょうが、その他の文献には見えませんので、小広王子と同じとする意見や王子社の存在そのものを疑問視する意見もあります。
 
一里塚跡(和歌山より28里) 中辺路起点(滝尻王子)より道標42番目
一里塚跡(和歌山より28里) 中辺路起点(滝尻王子)より道標42番目
語り部さんから草鞋峠の説明を聞く。 草鞋峠

 草鞋峠(標高595m)は、西に小広峠、東の岩神峠をひかえ、谷川を渡って上り下りする相次ぐ峠の一つである。平安・鎌倉時代に小平尾(小広峠)に接して、大平尾と称されたのがこの峠のことかとみられる。
 江戸時代には、草鞋峠の名称のほかに、この峠の西側の坂を熊瀬坂、東側の坂を女坂と呼ばれていた。この付近の山道は、蛭振峠百八丁といわれ、山蛭に悩まされていたと所です。



 
 語り部さんから草鞋峠の説明を聞く    AM11:40   
女坂を下り降りて 女坂と林道との出会い
女坂を下り降りて 女坂と林道との出会い
岩神王子に向かう男坂へは平成23年の台風12号の被害で道が崩落して是より約4kmを迂回路を通り蛇形地蔵へ向かう
仲人茶屋跡周辺で熊野古道通行止め 迂回路を通り岩神峠に
仲人茶屋跡周辺で熊野古道通行止め 迂回路を通り岩神峠に          PM12:05
熊野古道迂回路道標 ミカエリソウ
熊野古道迂回路道標 ミカエリソウ
登り坂を花々に癒されながら迂回路を歩く
リュウノウギク マツカゼソウ
リュウノウギク マツカゼソウ
アケボノソウ アキチョウジ
アケボノソウ アキチョウジ
カリガネソウ センブリ
カリガネソウ センブリ
アサギマダラにも出会いました テイショウソウ
アサギマダラにも出会いました テイショウソウ
岩神峠を越え下り坂に向かう 坂を下り終え蛇形地蔵に向かう
岩神峠を越え下り坂に向かう 坂を下り終え蛇形地蔵に向かう
蛇形地蔵
 蛇形石はこの道湯川の谷に産し、石面に蛇の模様がついている。この蛇形石を光背代わりにした地蔵が蛇形地蔵尊であり、ぜんそく、腰板、尿等の効験が伝えられている。大祭には、大阪、奈良方面から車を連ねて集まってくる。
 (大祭、3月24日までの直近の日曜日)
  PM13:55
湯川王子石碑 湯川王子社
湯川王子石碑 湯川王子社
湯川王子跡案内板 スタンプを押印して
湯川王子跡案内板 スタンプを押印して       PM14:25
湯川王子
 九十九王子のうち比較的格式の高い准五体王子で、道湯川の氏神として祀られてきた。しかし、明治末期に強引に近野神社に合祀され、更にこの地は昭和30年代から無人になったが、近年土地の出身者らによって小社殿が再建された。ここは参詣道の要地で院政期には上皇や貴族もしばしば宿泊や休憩をし、谷川でみそぎをおこなった。
湯川一族の墓がある周辺 中辺路起点(滝尻王子)より道標52番目
湯川一族の墓がある周辺 中辺路起点(滝尻王子)より道標52番目
越峠に向かうつづら折れの急な登り坂 三越峠までの最後の坂を登りきる
三越峠に向かうつづら折れの急な登り坂 三越峠までの最後の坂を登りきる
中辺路起点(滝尻王子)より道標53番目 旧三越峠関所跡
中辺路起点(滝尻王子)より道標53番目 旧三越峠関所跡   PM14:55
三越峠 (旧西牟婁・東牟婁郡境)
 「西口勇」氏著「くまの九十九王子をゆく」では、次のように記述されています
 「要害ノ森山」の北西に張り出した尾根の鞍部にあたり、古くから口熊野と奥熊野との境と認識されてきた峠です。 現在でも東牟婁郡と西牟婁郡を分ける群境となっています。 中世には峠に関所が設けられていて、熊野詣での人々から関銭を徴収していたといわれています。
 ここにあった「茶屋」は、大正年間まで営業していたそうです。
又、ここは、「湯峰」を経て本宮にいたる近道「赤木越(別名小栗街道)」との分岐点でもあるそうです
語り部さんから三越峠関所跡の説明を聞く サポート隊の方に見送られ奥熊野に足を踏み入れる
語り部さんから三越峠関所跡の説明を聞く サポート隊の方に見送られ奥熊野に足を踏み入れる
小さな滝が流れを見ながら  昭和40年代頃まで住んでいた集落地跡
小さな滝が流れを見ながら 昭和40年代頃まで住んでいた集落地跡
昭和40年代頃まで住んでいた集落地跡 集落地跡に残された廃屋
昭和40年代頃まで住んでいた集落地跡 集落地跡に残された廃屋
昨年の台風12号の被害爪痕 崩落した箇所を横切り 
昨年の台風12号の被害爪痕 崩落した箇所を横切り
中辺路起点(滝尻王子)より道標56番目 林道と分岐して急な石段を下る
中辺路起点(滝尻王子)より道標56番目 林道と分岐して急な石段を下る
足が滑りそうな急な石段を慎重に下る 音無川のせせらぎを聞きながら
足が滑りそうな急な石段を慎重に下る 音無川のせせらぎを聞きながら
中辺路起点(滝尻王子)より道標57番目 熊野古道赤木超え分岐の起点
中辺路起点(滝尻王子)より道標57番目 熊野古道赤木超え分岐の起点   PM16:25
 
船玉神社 船玉稲荷神社
船玉神社         PM16:30   船玉稲荷神社
猪鼻王子址 猪鼻王子のスタンプを押印
猪鼻王子址 猪鼻王子のスタンプを押印       PM16:40 
猪鼻王子
 天仁2年(1109)藤原宗忠は、谷川を数度渡って猪鼻王子に赴いている。玉滝山の山裾が音無し川の河原に迫っている平地に緑泥片岩の石碑がヒノキの木立の中にうずもれて立ってい居る。
 三越峠一帯を源流とする音無川(おとなしがわ)の河畔にある。本宮町萩から三越峠を結ぶ林道が拓かれ、参詣道の跡はとどめられておらず、王子址には林道から河原に下りて行かねばならない。現在ではわずかに紀州藩の碑が残るのみである。
  『愚記』に「猪鼻」とあり、『中右記』『頼資卿記』には谷川を数度わたって猪鼻王子に着いたとあるが、その後の熊野詣の衰微に伴って廃絶した。『郷導記』にも、谷川にかかる板橋をわたりながら進んだとあり、ほとんど道筋に変化が無かったことが分かる。次の発心門王子までは、猪鼻王子からごく近いところから山道を登って行った様が伝えられているが、現在ではその跡をたどることはできない。
熊野古道道標発心門王子へ 発心門王子までへ最後の上り坂を
熊野古道道標発心門王子へ 発心門王子までへ最後の上り坂を
大鳥居越しの発心王子社澱 発心王子社澱
大鳥居越しの発心王子社澱 発心王子社澱        PM17:05
発心門王子
 発心門と言う語は山岳信仰における四門修行に由来する。四門修行においては、山上の聖地に至る間に発心・修行・等覚・妙覚の4つの門を設け、それらを通り抜けることによって悟りが開かれると説かれた。このとき、発心とは発菩提心、すなわち仏道に入り、修行への志を固めることを意味する。すなわち、発心門とは聖域への入り口を意味しているのである。
 天仁2年(1109年)の藤原宗忠の参詣記は、ここに大鳥居があり、参詣の人々はその前で祓いをして鳥居をくぐったと伝えている。発心門とは本来は字のごとく楼門であるが、ここでは鳥居であり、そのそばにあったことから発心門王子の名が与えられた。
 
 今回の参加予定は10月17日だったが当日の天気が台風が接近している予報や雨のようだったので キャンセルして20日に変更して参加した。天気も上々でしたがロングコースでアップダウンが多く一番の難コースで少々疲れました。