物語    中欧5カ国周遊10日間の旅

2014年5月16日(金)〜2014年5月25日(日)

第4日目  5月19日(月曜日)
 宿泊地:ドレスデンのホテルを専用バスにてAM09:00出発し世界遺産の街プラハに向かう。プラハまでの走行距離約149Km、途中一度トイレ休憩を入れ所要時間約2時間30分。プラハに到着後レストランにてプラハハムの昼食。
 
 
世界遺産プラハ観光
 
 プラハ   PRAHA  人口120万人
  

 ラハがボヘミア王国の首都になったのは10世紀のこと。ヴルタヴァ川左岸に城が建設され、城下町マラー・ストラナーには市場が作られた。14世紀、カレル一世の時代に今日のプラハの基礎を築く。カレルの息子たちには世継ぎが無かった為、、15世紀に娘婿のハプスブルク家に王座が移り、以後ハプスブルク家の支配下に置かれることになった。
 15世紀初頭、教会の腐敗を訴えていたヤン・フスが異端者として焚刑に処され、フス派の戦いが続く。17世紀、30年戦争で敗北した新教徒の貴族たちが国外追放され、旧教徒の貴族たちがプラハに残った。ウィーンから多くの貴族が移り住み、ルネッサンスバロック、と美しい街並みを築いた。
 第一次世界大戦、チェコはハプスブルク家から独立し、スロヴァキアと共同国家を設立。第二次世界大戦後はty湖スロヴァキア社会主義共和国となり、ベルリンの壁崩壊後、1993年にスロヴァキアと分れてチェコ共和国となり2004年にはEUに加盟した。
フラッチャニ地区展望台からのプラハ城、市街地の眺め フラッチャニ地区展望台からのプラハ城、市街地の眺め
フラッチャニ地区展望台からのプラハ城、市街地の眺め
プラハ城  Prgue Casle 

 プラハの市街を睥睨する歴代の居城。9世紀半ばに城の建築が始まって以来、幾多の変遷を経て、14世紀のカレル4世の治世に現在の偉容がほぼ整えられた。16世紀末にハプスブルク家のルドルフ2世がプラハに宮廷を置いたことで城は栄、全盛期を迎える。その後ウィーンに宮廷を戻したことで城の繁栄は止まり、マリア・テレジアの時代に大改修が行われたものの衰退。
 城壁に囲まれた広大な敷地には、旧王宮、教会、修道院などが建っている。1918年にチェコスロヴァキア共和国が成立すると大統領官邸となり、。現在も旧王宮の建物はチェコの大統領府となっている。
 城の正門はプラハ城の南西にあり
フラッチャニ広場から第一の中庭に入って行く。
 
プラハ城。カレル橋からの眺望 フラッチャニ広場からプラハ城正門に向かう
プラハ城。カレル橋からの眺望  フラッチャニ広場からプラハ城正門に向かう
プラハ城正門両側に衛兵が番をしている 衛兵と記念写真も出来ます
プラハ城正門両側に衛兵が番をしている 衛兵と記念写真も出来ます
マティアス門 第二中庭にあるコール噴水
マティアス門 第二中庭にあるコール噴水
 
聖ヴィート大聖堂     Katedrala sv.Vita

 第二中庭から第三中庭に抜けると聖ヴィート大聖堂が現れる。926年聖ヴァーツラフが現在の場所に円形建物の境界を建てたのが始まりで、11世紀にロマネスク様式の教会に建て替えられ、現在のゴシック様式の姿になったのはカレル4世の時代で、東側の8つの礼拝堂が完成。続いて盛夏堆積、内陣のアーチ天井など現在の東側半分が作られた。長い年月を掛け建設され、完成したのは1929年のことで、西側半分は19世紀から20世紀にかけて建てられた部分で、完成した大聖堂は全長124m、幅60m、てんじょうのたかさは33m、3つの塔の内南側は96.5m、西側正面の2つの塔は82mとなっている。
 正面入口の扉の上にある1927年に完成した薔薇形のステンドグラスがあり、使われた色ガラスは26,740枚にもなります。
 
聖ヴィート大聖堂 聖ヴィート大聖堂 西側正面
聖ヴィート大聖堂南側  聖ヴィート大聖堂 西側正面
礼拝堂 ヴァーツラフ礼拝堂
礼拝堂  ヴァーツラフ礼拝堂 
豪華なムハのガラス絵  豪華なムハのガラス絵  
26,000枚の色ガラスを使った薔薇形のステンドグラス 
豪華なムハのガラス絵  26,000枚の色ガラスを使った薔薇形のステンドグラス 
 
チェコの大統領府として使われてい旧王宮
 旧王宮   Stary Kralovsky Paiac 

 12世紀にボヘミア王の居住として建てられ、16隻にハプスブルク家が王となって場内に新しいきゅうでんをたてるまで、歴代の国王が住んでいました。
現在はチェコの大統領府となっている
チェコの大統領府として使われている旧王宮   
   
ロマネスク様式の聖イジー教会
 聖イジー教会 Bazilika sv.jiri

 920年にヴラジスラフー世が木道の質素な教会をたてたのが始まりで、937年に、ボヘミアで初めての女子修道院が教会の隣にボレスラフ二世とその妹ムラダが建設しました。大火災後、1142年に再建されプラハで最も保存の良いロマネスク様式の建物が現在の教会である。二つの白い塔は太さが異なり、太い塔がアダム、細い塔がイヴと呼ばれていて、ともに2世紀に建てられました。
ロマネスク様式の聖イジー教会  
黄金の小道   Zlata ulicka

 16世紀、ルドルフ2世の時代に城の番兵たちに住まわせるために建てたたもので、「黄金の小道」と呼ばれているのは、ルドルフ2世お抱えの錬金術師たちが不老長寿の飛躍を作っていたという伝説に基づいています。現在は城壁側だけに15件ほど保存されており、土産物屋やカフェなどかわいい店が並んで観光客でにぎわっています。
 
「黄金の小道」案内板 水色の家は1917年フランツ・カフカが仕事場として使っていた所
「黄金の小道」の案内板  水色の家は1917年フランツ・カフカが仕事場として使っていたところ 
小さな可愛い家が並んでいます 小さな可愛い家が並んでいます
小さな可愛い家が並んでいます
 プラハ城内を巡り最後に「黄金の小道」を通りカレル橋に向かう途中の展望台からのプラハ市街地の眺め
カレル橋  Charies Bridge

 ヴルタヴァ川に架かるプラハ最古の美しい石橋全長約520m、幅約10mあり、両側の欄干に30体の聖人像が目を引く。14世紀後半から15世紀の初めにかけて、カレル4世の時代にゴシック様式で建造されたもの。車の乗り入れが禁止されており、ストリートパフォーマーや、ミュージシャン、似顔絵かき、おみやげ売りなどが並ぶにぎやかなスポットとなっている。
 
プラダ城からの旧市街地側カレル橋を眺望 マラー・ストフナ側橋塔
プラダ城からの旧市街地側カレル橋を眺望 マラー・ストフナ側橋塔
橋上でカレル橋周辺の風景画を販売 トレンティーノの聖ニコライ像:1706年コール作のコピー(1963年作)
橋上でカレル橋周辺の風景画を販売 トレンティーノの聖ニコライ像:1706年コール作のコピー(1963年作)
騎馬警官の巡回 ミュージシャンのストリートパフォマンス
騎馬警官の巡回 ミュージシャンのストリートパフォマンス
欄干に聖人像が並び、おみやげ屋やいろいろなパフォーマンスが繰り広げられる 橋の下を流れるヴルタヴァ川では遊覧船が往来しています。
欄干に聖人像が並び、おみやげ屋やパフォーマンスが繰り広げられる 橋の下を流れるヴルタヴァ川では遊覧船が往来しています。
カレル橋からプラハ城を眺望 600年近くも昔に架けられた石造のカレル橋
カレル橋からプラハ城を眺望 600年近くも昔に架けられた石造のカレル橋
旧市街地橋塔
 旧市街地橋塔  Staomestska mostecka vez

 カレル橋の旧市街地側に取り付けられた門塔。14世紀末に建設された太美しいゴシック建築である。かっては鉄格子の遮断扉がついており、敵が攻めて来た時は下ろして街を守るなど重要な防衛門であった。塔の展望所へ登るとヴルタヴァ川の向こうに広がるマラー・ストラナとプラハ城が望める。
 

 カレル通り  Charles Street


 旧市街広場からカレル橋までの細く曲がりくねった道で、「王の道」の一部。現在は土産物屋などが並び、大勢の観光客でにぎわっている。道沿いに並ぶ家々の紋章や建築様式などを見ながら歩くのも楽しみ。
 
 
旧市庁舎  Old Town Hall  &  天文時計  Astronomical Clock

 広場を挟んでティーン教会と向かい合うようにして建っている、塔のある建物が旧市庁舎。旧市庁舎で一番有名なものは天文時計だが、建物もまたユニークで、現在の建物は第2次世界大戦破壊された後修復されたものですが、旧市庁舎としてゼロから建設されたものではなく、数世紀掛けて元の建物を増改築したり、業務上の必要の為隣接する家を買い取ったりしてこの姿になったといわれています。
 
 天文時計は旧市庁舎塔の下の南側にあり、楯二つの文字盤が並んでおり、それぞれが作られた当時の宇宙観に基づいた天体の動きと時間を表している。上の時計が地球を中心に回る太陽と月、年月日と時間を示しながら一年かけて一周するものでプラネタリュムと呼ばれている。下は黄道12宮と農村における式の作業を描いた暦で、1日にひと目盛り動きます。

 
旧市庁舎 プラネタリュムと呼ばれている神秘的な動きの天文時計
旧市庁舎 ゴシック様式の旧市庁舎塔の天文時計
 
ヴァーツラフ広場  Wenceslas Square

 ナ・プシーコピェ通りと共にプラハ唯一の繁華街となっています。この広場はかっては馬市場だったところで、ムーステク駅から国立博物館まで長さ750m、幅60mもあり、通りの両側には由緒あるホテルや高級レストラン、デパートなどが並び、銀行やオフイスなども軒を連ねている。
 この広場は今でこそにぎやかな大通りだが、チェコ独立の歴史を語る上では欠かせない場所で、1968年、チェコの民主化運動を弾圧するため侵攻してきたワルシャワ条約機構軍がヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ、
「プラハの春」は挫折した。それに抗議し、1969年1月に学生ヤン・パラフが聖ヴァーツラフの騎馬像前で焼身自殺を図った。其の事件から20年後の1989年、100万人に上るプラハ市民がこの広場に集まり、無血の革命記憶に新しい「ビロード革命」を果たした。

 
正面に国立博物館が見えるヴァーツラフ広場 ヴァーツラフ広場北側周辺のオフイスやデパートの建物
正面に国立博物館が見えるヴァーツラフ広場 ヴァーツラフ広場北側周辺のオフイスやデパートの建物
広場の通りに並ぶホテルやレストラン 広場では大道芸人のパホーマンスも行われています
広場の通りに並ぶホテルやレストラン   広場では大道芸人のパホーマンスも行われています
                                           プラハの春

 1968年に、旧チェコスロヴァキアで始まった民主化運動の総称を
「プラハの春」と呼ばれている。
 1960年代に入り、チェコスロヴァキアではそれまでの共産党一党支配の政治経済体制への批判が表面化し、自由な社会を目指す改革の機運が高まった。国内の保守派も改革派の勢いを抑える事は出来ず、1968年1月に保守派のノヴォトニーは共産党第一書記の座を失い、河って改革派のドゥブチェクが第一書記に就任。一気に言論の自由をはじめとする様々な権利と自由の獲得に向かって走り出した。
 改革の波が自国にも押し寄せることを懸念した旧ソ連以下の旧東欧諸国は、この改革運動を批判し始め、1968年8月21日、ワルシャワ条約機構諸国は民主化を阻止するため軍事介入を決行。旧ソ連軍がヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ、占拠。これは「チェコ事件」と呼ばれている。学生ヤン・パラフはこれに死を持って抗議したが、チェコスロヴァキアの自由への改革、
「プラハの春」は実ることなく鎮圧された。


                                          ビロート改革 

 1989年11月、旧チェコスロヴァキアに於いて民主化を求める学生のデモが発端となり、同国の共産党政権が崩壊した歴史的事件で、無血で革命が成功したため
「ビロート革命」と言われている。
「プラハの春」でも積極的に改革を推進した劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に就任し、この国は本当の自由を手にした。
 この無血革命は、
「プラハの春」以降、国内に自由を求める機運が脈々と流れ続けていた、その基盤があったからこそ起こり得たものである.

                              
 
 
世界遺産プラハ観光後、夕食はビアレストランにてチェコビールを飲みながらの食事。
 
レストランの建物 レストラン内
チェコビール 前菜のサラダ チェコ料理メインデッシュ デザート
 
夕食後、専用バスにてホテルへ向かう                                             [宿泊地:プラハ]
 宿泊ホテル  PENTA HOTEL PRAGUE (ペンタ ホテル プラハ)    220号室
ホテル玄関 ホテルフロント フロアーに投影されたホテルのロゴ
ホテル玄関 ホテルのフロント フロアーに投影されたホテルのロゴ
 
 
明日(20日)の朝の予定

モーニングコール AM 06:00     朝食  AM 06:30〜      荷物出し AM 07:00

 
 参考資料: 実業之日本社 わがまま歩きツアーズE  中欧・ドイツ
参考資料:ダイアモンド社 地球の歩き方A26 チェコ・ポーランド・スロヴァキア